東京調布市のリンパドレナージュサロン ル・ロマラン です。

リンパドレナージュを通して、ココロとからだを整えながら暮らしている様子をお伝えしています。

お一人でも多くの方のお役に立てれば幸いです。

熊野詣 3回目

こんにちは。

お久しぶりでございます。


実は18日から和歌山に行っていました。

今回で3回目。


和歌山の何が気に入っているのかといいますと、水。


宿の水道から出るお水も、おいしく飲めますし、川を流れる水の色も独特です。

下の写真は二つの川が混ざり合うところです。

二つともスゴイきれいな色ですね。


そして今回初めて行ったのが、白浜にある南方熊楠記念館。

南方熊楠って方、ご存じですか?


ワタシも何となくでした。粘菌の研究とか、神社合祀反対運動とか。。


でも今回行ってみて、そのスゴサに圧倒されました。

熊楠の残した「南方マンダラ」や「事の学」に心惹かれます。

心と物が交わり、事が生じるという「事の学」。

万物の事象をとてもシンプルにわかりやすく示している気がいたします。

そしてそれらは、まだ定説がなく今でも研究が続けられています。

【特集】時代が彼にあこがれる 知の巨人・南方熊楠。

トップページ > 課・室一覧 > 広報課ホームページ > 和(nagomi) > vol.11 > 【特集】時代が彼にあこがれる 知の巨人・南方熊楠。 南方熊楠とはいったい何者か? 18ヶ国もの言語を操り、14年間に渡り海外を放浪。博物学や民俗学、植物学では近代日本の先駆的存在。エコロジーの分野においても注目を集める。子供好きで動物好き、甘いものにも目がなかったという。様々な顔を持つ、既定の枠には収まりきらないその人物像に迫ろう。 1892年、熊楠25歳。プリダでの記念撮影。記憶力は抜群!も、学校は嫌い。幼少期の熊楠が夢中になったのは博物学書の写し書き。百科事典『和漢三才図会』は知人の家で読んで記憶し、家に帰って筆写。やがて借り出し、全105巻を完成させた。しかし学校は嫌いで、動植物の観察に熱中。山野を駆け巡っていたので、「てんぎゃん」(天狗)と呼ばれた。(左)13歳で教科書『動物学』を自作。(下)『和漢三才図会』の写し書き。 手紙に描かれた宇宙、「南方マンダラ」。「南方マンダラ」は熊楠が36歳の時、後に高野山真言宗管長となる土宜法竜(どぎほうりゅう)宛の書簡に描いた独自の曼陀羅。様々に入り混じった熊楠の宇宙的思想の根源をなすモデルとされるが、定説はなく、その思想を知るための鍵とされている。無数の因果関係で世界が成り立っていることを示そうとしている。あの人もこの人も、熊楠に魅了された。ロンドンでは中国革命の父・孫文と出会い、たちまち意気投合し議論を交わす。また民俗学者・柳田国男とは文通仲間。手紙魔だった熊楠は1日に何度も便りを出したという。後に交信を絶ったが、熊楠死後いちはやくその功績を認め、全集の計画をしたのは柳田国男だった。孫文と熊楠兄弟との記念撮影。熊楠の弟・常楠の長男を抱くのが孫文。(1901年)熊楠を支えた家族や友人。酒飲みであったことも手伝ってか、熊楠には多くの友人が集った。39歳での結婚も学生時代の親友で医師・喜多幅武三郎の紹介。わがままな熊楠も彼の言うことなら聞いたという。妻・松枝はそんな熊楠に悩まされながらも献身的に支え、娘・文枝と協力し熊楠が残した資料を守り続けた。右より熊楠、長男・熊弥、松枝、文枝、お手伝いさん。(1915年)天皇を虜にした粘菌研究。熊楠最大の研究対象は粘菌(変形菌)で、約7,000点の標本が残っている。1929年には田辺湾の神

www.pref.wakayama.lg.jp

そしてその記念館が、とても素敵な建物でした。

展示物は撮影できませんでしたので、屋上テラスからの眺めをお見せいたします。

トンビにも囲まれてうれしかったです。

リンパドレナージュサロンRomarin

普通の主婦だったワタシがオリジナルメソッドのリンパドレナージュと出会って15年。 その間、なんと200万人にひとりの難病になったり、 交通事故で脳挫傷になったりと稀有な体験をしてきました。 ですが今ではその技術があったおかげで、ほとんど後遺症もなく普通の生活ができています。 その過程で得た、様々な知識や体験をお伝えしています。 少しでも皆様のお役に立ちましたら幸いです。

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